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みなさんが「宇宙」と呼んでいるその世界は正しくは「右宙」で、それとは別に「左宙」があります。「右宙」と「左宙」はふたつでひとつですので、セットで販売しているのですが全く売れず、今では店の隅っこの方に転がっていて、めっちゃ粉吹いています。
彼女は駅前のドトールで働いている。その彼女をひと目見た瞬間に僕は恋に落ちた。本気で彼女を好きになってしまったのだ。

どうすればその想いを彼女に伝えられるだろうか。と、僕は考えた。僕がどれほど彼女のことを好きでいるのか、それを彼女に知ってもらうためにはどうすれば良いのだろうかと。

考えた挙句、僕はドトールの前の通りを自転車でうろうろすることにした。そうすればきっと彼女も僕の気持ちに気付いてくれるはずだと思った。僕は毎日のように自転車で出かけていっては、ドトールの前をうろうろした。

でも、どれだけうろうろしても、彼女に想いを伝えられたような気がしなかった。なぜなんだろう。なにが足りないんだろう。と、僕は考えた。もしかしたら、スピードが足りないのかもしれない。

僕はそのように考えて、うろうろするのはやめて、今度はすごいスピードでドドールの前を通過してみた。シャーー!!

それはもう、ものすごいスピードだった。きっと、見えないくらい速かったんじゃないかな。僕は何べんも何べんも、そうやってドトールの前を自転車でものすごい速さで通過した。

でも、ダメだった。僕の気持ちは彼女に伝わらなかった。自転車では、だめだったのだ。

そこで僕は、自分のへそと全く同じ形のペンダントを作って、彼女にあげることにしたのだ。

世界でいちばん最初に階段をつくった男は
みんなに登ってもらうために階段をつくった。

その階段をみんなは喜んで登った。
しかし、降りもした。
登った人はみんな降りてきた。

せっかくみんなのためにつくった登るための階段を
みんなは降りてきた。

人の善意を台無しにするようなその行為に怒り狂った男は
階段を平らにし、ただの傾斜に戻してしまった。

みんなは、その傾斜の上から下に向けてソーメンを流した。
これが流しソーメンの起源となった。

男は憤死した。

手を洗う場所が、もし世界に一か所しかなかったら…

もしそうだったら、みんながそこに手を洗いに集まって来ます。
全ての人間と、全てのアライグマが、その場所に来て手を洗います。

地球外に生命体が存在するのかしないのかは分からないけど、
もし、宇宙のどこかにいたとして、
かつ、それがもし手を洗うタイプの生命体であった場合には、
その生命体も来て、手を洗います。

世界に一か所しかない手を洗う場所に、全ての人間と、全てのアライグマと、
全ての手を洗うタイプの宇宙の生命体がやって来ます。

もしそうなったら、そこには長ーい長ーい、順番待ちの行列ができます。
野を、山を越えどこまでも続く、長ーーーい行列ができます。

そして、もしそうなったら私は…

私は、行列に並ぶ人たちにお弁当やお菓子、ビールに雑誌、雑煮などを売ってまわる、
売り子のアルバイトをしなければなりません。

私はそのアルバイトをやりたくないけど、でも、やらなければなりません。
なぜなら、それは 「義務」 だからです。 

ああ 嫌だ。
嫌だ 嫌だ やりたくない やりたくない。

最近はブログもあまり更新してなかったし、twitterも全然やってなかったのですが、何をしてたのかというと、ずっと球体について考えていました。

なんでみんな、球体から飛び出してくるのか?

アニメとか観てると、だいたいみんな、球体から飛び出してきますよね。
エヴァンゲリオンだと、レリエルとかいう球状の使徒に取り込まれた初号機が内側から球体を突き破って出てきたし、エウレカセブンでは、エウレカとレントンが赤い球体の中から出てきました。いちばん最近観たやつだと NARUTO とかでも、地爆天星で閉じ込められたナルトが球体の中から出てきました。

ドラマとかは全然観ないのでよく知らないですが、きっと同じですよね。
小栗旬さんとか、堀北真希さんとかが、球体を内部から突き破って登場するシーンがきっとあるのでしょう。

ワールドカップもあんまり観てないので詳しくは知らないですが、これもきっと同じですよね。
試合の途中で、テベスとかリベリとかが、球体を内側から真っ二つに切り裂いて突如現れて、そのままピッチを駆け回ったりするのでしょう。それがサッカーというスポーツなのでしょう。

そういうのを見ていて、なんで球体から飛び出してくるのか、その理由は分からないけれど、ともかく飛び出ることが重要なのだということだけは、なんとなく分かってきました。要するに、飛び出てナンボなんだと。

なので、今後は僕も、バンバン球体から飛び出していこう、と思ったのですが、そう思った次の瞬間に、球体から飛び出すためには、まず、球体に取り込まれる必要があるということに気付いてしまい絶望しました。
 
いったいどうすれば、球体に取り込まれることができるのでしょうか。
普通に会社勤めをして、家族といっしょの家に住んで、みたいな生活をしてる限りは、なかなか球体に取り込まれる機会には巡り合えないような気がしています。



ペパボの新サービス Puboo(パブー) を使って、電子書籍をつくってみました。
onoe くんに無理を言って描いていただいたイラストが、すごく良いです!
 
▼「300年後も、わらっていいとも」
 http://p.booklog.jp/book/471

もし良かったら見てみてください〜




 




1羽

(累計:760羽)
どういう経緯でそうなったのか忘れてしまったけど、会社の飲み会のときに、「 一夫多妻制 」 に関して話題が及んだ。日本もいずれ一夫多妻制にならないだろうか、とか、そうなる為には男が複数の女を養えるような経済状況が不可欠だ、とかそんなことを誰かが述べ、そのうち石油王がどうしたとか、アラブがどうのとか、ウガンダでのNPO活動だとか、あらぬ方向に話題は逸れていった。でも私はそれからもずっと考えていた。一夫多妻制について。

「 一夫多妻制 」 という言葉を聞いて、私がまずはじめに連想したのは 「 ぶっかけうどん 」 であった。
私は 「 ぶっかけうどん 」 における、「 ぶっかける 」 側と、「 ぶっかけられる 」 側の関係性について、飲み会を終えて家に帰っても、ずっと考え続けた。

「 ぶっかけうどん 」 における 「 ぶっかける 」 側に立っているのは何者かというと、それは当然、「 うどん屋 」 である。 では 「 ぶっかけられる 」 側に立つのは誰かというと、まず、「 うどん 」 が該当するだろう。
「 ダシ 」 はどうだろう。「 ダシ 」 は一見 「 ぶっかける 」 側に属すような錯覚を覚えるが、「 ダシ 」 とて 「 うどん屋 」 の手によって 「 うどん 」 に 「 ぶっかけられてる 」 に過ぎない。「 ダシ 」 も 「 うどん 」 と同様に 「 ぶっかけられる 」 側の者だ。

それなら 「 私自身 」 はどうかというと、実はこれも 「 ぶっかけられる 」 側の者だ。「 ぶっかけられし者 」 と言い換えても良い。もちろん実質的にダシをぶっかけられているのは 「 うどん 」 だが、その 「 うどん 」 は、私がお金を払って買った、わたしの所有物である。であるから、そのわたしの所有物であるところの 「 うどん 」 に 「 ダシ 」 を 「 ぶっかけられてる 」 ということは、間接的に 「 私自身 」 が 「 ぶっかけられてる 」 のと変わらないのである。

さらに言うと、人間のなかで 「 ぶっかけられてる 」 人間は、「 私 」 だけではない。「 私 」 以外の多くの人、厳密に言えば、「 うどん屋 」 以外のあらゆる人民が 「 ぶっかけられてる 」 のだといえる。図に表すとこうなる。



この関係性は、きわめて一夫多妻的であるといえる。

白い麺の盛られた和陶の器の底には、”嘘”が隠されていた。
いや、この”嘘”を隠蔽するために、うどんは盛られたのかもしれない。
なんにせよ、「 ぶっかけうどん 」 の構造は、きわめて一夫多妻的であると確かに言える。この許されざる”嘘”を暴き、白昼の元にさらす責務が、私にはあると感じた。それが夜中の二時のことだった。

だがそれからなおも私は考えた。
私は 「 ぶっかけうどん 」 に隠された不正を糾弾し、しかる後、一体どうしたいのだろうか、と。
最終目的は何?
人や物事の短所や欠点を見つけ出し批判することは誰にだってできる。だが、大切なのは批判そのものではなく、そこからどう行動し、何を生み出せるかだ。

「 ぶっかけうどん 」 の構造が一夫多妻的であることを暴き、その後世界をどう再構築するのか。
「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の立場を逆転させ、「 うどん屋 」 に 「 私 」 が 「 ダシ 」をぶっかけたいのか?( ※ 図2を参照 )
それとも 1対n の関係性を改めさせ、「 うどん屋 」 が 「 私 」 に、この 「 私 」 だけに 「 ダシ 」 をぶっかけてくれるような、1対1 の関係、すなわち一夫一婦制の採用を迫りたいのか?( ※ 図3を参照 )


<図2>


<図3>

そうやって突き詰めて考えていくと、自分が心の奥底では、今の関係のままでいたいという願望を持っていることが分かった。
「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の立場の逆転も、「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の 1対1 の関係も望んでなんかいない。
そんなことをしても無意味だ。そんなことをしたら、「 ぶっかけうどん 」 は 「 ぶっかけうどん 」 でも何でも無くなってしまう。 カーテンの隙間からのぞく白み始めた空を見ながら私はそう思った。

そうだ、私は、心の本当の部分では一夫多妻制を望んでいるのだ。
その他大勢の妻と等分に分け合って何分の一だか、何十分の一だかに分割された夫からの愛情を、それでもなお、欲しているのである。あたしはそんな、馬鹿な女なんだ。

や、違う。わたしは男である。みたいなことを考えていたら出社時刻に。
一般的には六つ子として知られているおそ松くん兄弟ですが、実はもう一人いて、兄弟は全部で7人。ほんとは7つ子なのだそうです。

その7人目は遅松という子です。名前のとおり何をやっても遅い子なので、ほかの兄弟より遅れて登場するのですが、「おそ松くん」の最終回までには間に合わず、原作漫画の連載やアニメ番組の放送が終了してだいぶたってから、2006年くらいにはじめて登場しました。

朝起きるのが遅い、とか、ご飯を食べるのが遅い、とか、とにかくあらゆることが「遅い」ことがきっかけになって、遅松くんの身の回りには事件が絶えず、登場してから後、遅松くんは常に新しいドラマを生み出し続けました。 それはある種の求心力を醸成し、やがて遅松くんは七つ子の中でも際だった存在感を示すようになっていきます。

2009年現在、七人の中で最もキャラ立ちしてるのは間違いなく遅松くんだと言えるでしょう。 しかし、にも関わらず、私を含めほとんどの人は遅松くんのことを知らないはずです。
私たちは、遅松くんの八面六臂の大活躍を目の当たりにしているはずなのに、遅松くんのことを知りません。なぜでしょうか。

それは、私たちの網膜に投影された遅松くんの視覚情報が、わたしたちの脳内の視覚中枢へ伝達される速度が、遅いからです。

通常であれば、目で見た像が何であるかを脳が特定するまでの認知の処理には1秒もかからないはずですが、遅松くんの場合に限っては、脳がなかなか認識してくれません。

私たちは、2007年前後から、遅松くんの姿をこの目で見ているはずなのですが、その視覚情報は、2009年現在、おそらく視細胞によって電気信号に変換されている最中で、この信号が視神経を通って脳内の視覚中枢へ達するのは、2013年の夏頃になるだろうと予測されています。

初登場が最終回に間に合わなかった、センター試験を7月に受けに来た、とっくの昔に枯れて朽ちた花に水をやり続けた、など彼の「遅さ」を垣間見るようなエピソードは数多あれど、自身のビジュアル情報を他者の脳内に数年越しに送り込むというのは、その極みとも言えるエピソードでしょう。

2013年夏、私たちはいっせいに、遅松くんのことを認識しはじめます。もちろんその時には、既に遅松くんは私たちの目の前を去ったあとですから、私たちはこれを夢だとか啓示のようなものと捉えることしかできないはずです。

それは、人類が同時に見た共通の夢としてのちのちまで語り継がれ、やがていつしか漫画化されることでしょう。
YMOっていうと、どうしても細野晴臣と坂本龍一が取りざたされるばっかりで、高橋幸宏はなめられがちだと思うんだけど、それってよく考えてみたらしようがないことで、坂本龍一は15回、細野晴臣にいたっては既に20回も生まれ変わってて、転生の度に魂のレベルが上がってるわけだから、そりゃあ高いとこにいて当然というか。一方高橋幸宏はどうかというと、まだ2回しか生まれ変わってない。それってすごくないですか?たった2回の輪廻で20回の細野と15回の教授と同じステージに立ってるんですよ?輪廻1回につきどんだけ成長してるんだっていう。伸び率がハンパない。 この勢いでいくと来世で細野越えて、来来世には仏陀越えちゃうんじゃないかな。幸宏すげー。


結局、YMOっていう存在は、高橋幸宏がネクストレベルに達するために宇宙が用意した装置に過ぎなかった、それが僕の見解ですね。