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どういう経緯でそうなったのか忘れてしまったけど、会社の飲み会のときに、「 一夫多妻制 」 に関して話題が及んだ。日本もいずれ一夫多妻制にならないだろうか、とか、そうなる為には男が複数の女を養えるような経済状況が不可欠だ、とかそんなことを誰かが述べ、そのうち石油王がどうしたとか、アラブがどうのとか、ウガンダでのNPO活動だとか、あらぬ方向に話題は逸れていった。でも私はそれからもずっと考えていた。一夫多妻制について。

「 一夫多妻制 」 という言葉を聞いて、私がまずはじめに連想したのは 「 ぶっかけうどん 」 であった。
私は 「 ぶっかけうどん 」 における、「 ぶっかける 」 側と、「 ぶっかけられる 」 側の関係性について、飲み会を終えて家に帰っても、ずっと考え続けた。

「 ぶっかけうどん 」 における 「 ぶっかける 」 側に立っているのは何者かというと、それは当然、「 うどん屋 」 である。 では 「 ぶっかけられる 」 側に立つのは誰かというと、まず、「 うどん 」 が該当するだろう。
「 ダシ 」 はどうだろう。「 ダシ 」 は一見 「 ぶっかける 」 側に属すような錯覚を覚えるが、「 ダシ 」 とて 「 うどん屋 」 の手によって 「 うどん 」 に 「 ぶっかけられてる 」 に過ぎない。「 ダシ 」 も 「 うどん 」 と同様に 「 ぶっかけられる 」 側の者だ。

それなら 「 私自身 」 はどうかというと、実はこれも 「 ぶっかけられる 」 側の者だ。「 ぶっかけられし者 」 と言い換えても良い。もちろん実質的にダシをぶっかけられているのは 「 うどん 」 だが、その 「 うどん 」 は、私がお金を払って買った、わたしの所有物である。であるから、そのわたしの所有物であるところの 「 うどん 」 に 「 ダシ 」 を 「 ぶっかけられてる 」 ということは、間接的に 「 私自身 」 が 「 ぶっかけられてる 」 のと変わらないのである。

さらに言うと、人間のなかで 「 ぶっかけられてる 」 人間は、「 私 」 だけではない。「 私 」 以外の多くの人、厳密に言えば、「 うどん屋 」 以外のあらゆる人民が 「 ぶっかけられてる 」 のだといえる。図に表すとこうなる。



この関係性は、きわめて一夫多妻的であるといえる。

白い麺の盛られた和陶の器の底には、”嘘”が隠されていた。
いや、この”嘘”を隠蔽するために、うどんは盛られたのかもしれない。
なんにせよ、「 ぶっかけうどん 」 の構造は、きわめて一夫多妻的であると確かに言える。この許されざる”嘘”を暴き、白昼の元にさらす責務が、私にはあると感じた。それが夜中の二時のことだった。

だがそれからなおも私は考えた。
私は 「 ぶっかけうどん 」 に隠された不正を糾弾し、しかる後、一体どうしたいのだろうか、と。
最終目的は何?
人や物事の短所や欠点を見つけ出し批判することは誰にだってできる。だが、大切なのは批判そのものではなく、そこからどう行動し、何を生み出せるかだ。

「 ぶっかけうどん 」 の構造が一夫多妻的であることを暴き、その後世界をどう再構築するのか。
「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の立場を逆転させ、「 うどん屋 」 に 「 私 」 が 「 ダシ 」をぶっかけたいのか?( ※ 図2を参照 )
それとも 1対n の関係性を改めさせ、「 うどん屋 」 が 「 私 」 に、この 「 私 」 だけに 「 ダシ 」 をぶっかけてくれるような、1対1 の関係、すなわち一夫一婦制の採用を迫りたいのか?( ※ 図3を参照 )


<図2>


<図3>

そうやって突き詰めて考えていくと、自分が心の奥底では、今の関係のままでいたいという願望を持っていることが分かった。
「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の立場の逆転も、「 ぶっかける 」 側と 「 ぶっかけられる 」 側の 1対1 の関係も望んでなんかいない。
そんなことをしても無意味だ。そんなことをしたら、「 ぶっかけうどん 」 は 「 ぶっかけうどん 」 でも何でも無くなってしまう。 カーテンの隙間からのぞく白み始めた空を見ながら私はそう思った。

そうだ、私は、心の本当の部分では一夫多妻制を望んでいるのだ。
その他大勢の妻と等分に分け合って何分の一だか、何十分の一だかに分割された夫からの愛情を、それでもなお、欲しているのである。あたしはそんな、馬鹿な女なんだ。

や、違う。わたしは男である。みたいなことを考えていたら出社時刻に。
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