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まだ火の使い方すら知らなかった頃の人間たちにとって、夜ほど怖いものはありませんでした。なぜ夜が来るのか、夜とは一体何なのか、何も知らない人間たちは、闇に向かって石を投げたり、先の尖った木の棒を振りかざして、夜を追い払おうとしました。夜から逃げるために太陽の沈む方角へ向って旅立つ者もたくさんいたといいます。しかし、何をやってもだめでした。それで人間は悟りました、夜はなくならないということを。

その頃、洞窟にとても怖がりな男が住んでいました。男の怖がりっぷりといったら、それはもう異常なくらいで、とにかく何でもかんでも怖がるのでした。男は木の洞を怖れ、雲の影を怖れ、水たまりの光の反射を怖れました。自分のおじいちゃんとおばあちゃんの顔を怖れ、眼球を下に向けると視界の隅にわずかにうつる自分の鼻の先端すらも怖れました。魚の鱗や、鳥のくちばしもよく考えてみると怖いし、なんかわかんないけどバナナの形も怖い、と思っていました。

夏のある日、男は、恐怖のあまりついに洞窟を飛び出して行ってしまいました。自分の脇の下から信じられないくらい怖い匂いが漂ってくることに気付いたからでした。その怖い匂いから逃げるために、男は洞窟に家族を残し、あてもなく野を山を無我夢中で走り続けました。しかし遠くへ逃げれば逃げるほど、走れば走るほど、脇の下の匂いはますます怖くなって追いかけてくるのでした。そしてやがて夜になりました。

それは月や星のない、いつにも増して暗く、風もないじめっとした不気味な夜でした。考えてみれば、男がひとりで夜をむかえたのは、生まれてはじめてのことでした。いつも怖くて怖くてしょうがなかったけれど、それでも毎日どうにか夜をやり過ごしてこれたのは、お父さんやお母さん、妹や弟がいつもそばにいてくれたからなのです。それに気が付いて、男は絶望してしまいました。自分ひとりだけで夜を乗り越えることなんて絶対無理だ、と。

恐怖は加速度的に増していきました。手の平をかざしてみてもその輪郭さえ見えない、自分が眼を開いてるのか閉じてるのかすら分からないほど濃厚な、完全な闇にすっぽりと包まれて、男はパニックになりかけました。くらい、くらい、こわい。心臓がばくばくいって、汗が吹き出て、脇臭が強烈に香りました。くらい! こわい!くさい!男は極限まで追い詰められました。もうだめだ。頭が狂ってしまう。男の悲鳴が闇にこだましました。

人類初の歌は、その夜、生まれました。その偉大な発明は、極限状態に置かれた男の、防衛本能によってもたらされました。

恐怖に囚われた男は、息つく間なく絶え間なく悲鳴を上げ続けました。およそ人が発声し得る限りのあらゆる種類の、全パターンの悲鳴や弱音や嘆き、嗚咽などすべて、それは全部で15,010通りあると言われていますが、それらをすべて試したのち、15,011回目に男の口からそれは生まれました。悲鳴でもなく、呻きでもなく、祈りでもない、誰も聞いたことがなかったまったく新しい何か。それこそが、のちに歌と呼ばれることになるもののワンフレーズだったのです。

15,011回目のとき、ほんの少しだけ恐怖が和らいだことに、男は気付きました。それから色々試すうちに、どうやら、ある特定の音の連なりが、気持ちを上向きに変化させることが分かってきました。男は、自分の口から発せられた音のうち、恐怖を無くす効果があると思われるものだけを採集し、それらを組み合わせて、そしてついに一曲の歌を完成させました。(余談ですが、偶然にもその歌は、大塚愛の「さくらんぼ」と全く同じ歌だったそうです。)

闇のなかで男は、何度も何度も完成したその歌を歌いました。不思議なことに歌っている間だけは、怖い気持ちがなくなって、なんだかワクワクするような楽しい気分になってくるのでした。夜はいまや男にとってよく見知った友達のようになっていたし、あんなに怖かった脇の下の匂いも、なんだか面白い匂いに感じられました。鼻先を脇の下に突っ込んではゲラゲラと笑いました。なにこの匂いー!ウケるー!

そしてやがて朝がきました。男は洞窟に帰って、みんなに歌を教えました。歌はまたたく間に地球全土に広まりました。その後、新しい歌が次々に生まれてそして月日は矢のように過ぎて、1995年8月8日、ついに鈴木蘭々の「泣かないぞェ」が発売されたのでした。
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